ドラクエユアストーリーを肯定したい

 まずは、この風潮に逆行したタイトルを目にされたにも関わらず、本文を読もうと思って頂けた事に感謝を申し上げたい。
 また、今回は議論に集中するためにである調で執筆させて頂くことをご容赦願いたい。


 初めに、これを書く私がどれだけドラクエのプレイ経験があるのかを簡潔に述べるとするなら、基本的にナンバーズはⅩ(二部まで)含めて一通りクリアしており、一方でモンスターズは初代とジョーカー1をやり込む程度、その他外伝作品に関してはまずまずであり、剣神、ソード、ヒーローズ辺りは手を出していた……と言ったところである。
 これを見てわかるように、私よりもドラクエを多く、長くプレイし、知り尽くしているプレイヤーは大勢いると思われるので、今回の議論はそんな少しだけ凝ったにわかファンの戯言だと思う程度にお聞き頂ければ幸いだ。
 だが、それでも六本木にて開かれたドラクエ展では最後の竜王討伐企画にて最前列で大袈裟なアピールをして勇者として選んでもらい、また受験生時代にドラクエか勉強かの二択を迫られて、迷った結果ドラクエを選び志望校に落ちた挙句、その事を全く後悔していない程にはドラクエを愛している事だけはここに明記しておきたい。


 タイトルにも書いた通り、この文章は、あれだけ非難の的となったドラクエのCG映画、「ドラゴンクエスト ユアストーリー」に関しての肯定意見を述べるものとなっている。
 というのも、公開二日目に映画館へと足を運んだ私は、実は初見の時点で(むろん人類有史きっての、とはいかなかったが)かなりの傑作だと思ってしまったのだ。確かに最後の展開は間違いなく賛否両論となりうるだろうと思ったのもまた事実だが、あくまで「両論」……つまりは肯定派と反対派がそれぞれ出来上がるのではという予測でしかなかった。
 だが実際蓋を開けてみると、評価は否定派意見によって埋め尽くされていたように思う。それはもう、あくまで印象としてだが、否定派10対肯定派0とすら言える程の非難轟々ぶりであり、ツイッター等による「行ってきたー!面白かったー!」の様な根拠のない感想を除けば、私の記憶ではあの映画を良かったとする趣旨のネット記事及びブログのページはただ一つしか見かけなかったのだ(今ではそれなりの数の肯定意見もあるが、当時の否定派一強振りはそれほどに凄まじかったように思う)。


 それ以来、このユアストーリーに関しては何となく釈然としない気持ちを抱えたまま今日まで過ごしてきたのだが、先日の発表により、今月の末に新たなドラクエのタイトルが発表されるとの情報が入った。
 詳しくは後述するが、それならばこの気持ちを吐き出すにはもう後がないと思い、今回書き留めた次第である。かなり前置きが長くなってしまい申し訳ないのだが、あの世紀の駄作映画を肯定する物珍しい意見として、冗談半分にでも読んで頂ければ幸いである。 

 

 

 さて。
 先に否定派が大多数であったと述べたが、否定するからには無論彼等には根拠が存在する。
 とはいえ圧倒的な母数なのでその意見も膨大で、それらに全て触れているといつまで経っても終わらなさそうなので、今回は大まかに二つの意見に関して述べたいと思う。
 すなわち、「ドラクエ5における少年時代のカット」と、「ラストの展開」である。
 ちなみに他の意見としては、音楽の選出が雑、演出が駆け足すぎるなどの各論から、コアな所ではCGクリエイターの方で(やはりこれもラストの展開に関わる事なのだが)「CG映画の制作過程を丸裸にする様な演出は、虚構を現実に見せようとする我々の立場からすると冒涜である」と言ったものまで存在した様に記憶している。


 まずは「少年時代のカット」から。
 これは大いに頷ける。ドラクエ5を一度でもプレイすれば分かる通り、少年時代はドラクエ5のストーリーの中では極めて大きなウェイトを占めている。主人公はあの時代に父パパスの偉大さを知り、その父親に追いつかないまでも子供ながらに冒険をして少しずつ強くなっていき……されど少年時代の終わりにどうあっても抗いようのない現実にぶち当たり、あれだけ偉大だった父親が無力のうちに不業の死を遂げてしまうという、このフェーズだけで一つのエピソードが纏まってしまう程に完成されたシナリオが、そこには存在するのである。
 また、花嫁をビアンカに据えるのならばレヌール城のイベントは必須であるし、パパスの死亡シーンだけをピックアップしたところで彼の軌跡を知らない視聴者は思い入れが薄いだろう、とは思う。やはり少年時代に焦点を当てられなかった事は低評価の大きな一因にはなり得る事には、私も流石に同意せざるを得ない。


 なのでこれに対する反論はあくまで情状酌量を求める程度のものでしかないのだが、それでも余地はあると思うので述べておく。
 というのも、これらは予想できたことではないだろうか、と思うのである。
 基本的にアニメやCG映画で二時間を超えるものは少なく、標準で一時間半、二時間あれば長い方な作品ジャンルである。その一方でドラクエ5は父、主人公、そしてその子供の3世代に渡って繰り広げられる、一種の大河ドラマ的ストーリーなのだ。それらが一時間半に上手く纏めるのは至難の技ではないだろうか。
 いや、不可能とは言わない。だがそれを成し遂げると言う事は、本当に物語に必要な骨格以外は全て削ぎ落とすと言う事を意味しており、それはドラクエ愛のある映画制作スタッフにはかなり厳しいのではないかと思うのである。
 ……これに関しても、実際はユアストーリーの監督はドラクエのプレイ経験が無いそうで、否定派からは「ドラクエ未プレイの監督がドラクエの映画を作るなんて」と言う意見があった。その気持ちはとても分かる。まあ、映画制作決定からドラクエを始めたところで、実際の制作開始までにドラクエ5を初見でクリア出来るかといえば難しいとは思うが、だったら初めからドラクエ経験者に任せれば良いだろうと思う気持ちは私にもある。
 だが、どうだろうと思うのだ。先ほど言った通り、ドラクエ愛のある監督やスタッフならおそらくドラクエ5の多くの思い出深いエピソードを非情にもカットして最適化する、なんて事を上手くやれてしまうだろうか。それは本当にドラクエ愛のある人間が為せる技だと言えるだろうか。
 むしろ少年時代を敢えて丸々カットする事によって、映画が初ドラクエと言う観客層を切り捨てながらもファンの記憶によって物語を補完させるという手段は、強引過ぎでありながらも尺の調整という観点からは妙手だったのではないだろうか。
 それだけではない。むしろそれこそがこの作品の主題にも繋がっているのである。なぜなら、既プレイ者それぞれに、ドラクエ5としての少年時代はユアストーリーと言う名の如く存在するからである。そこを敢えてぼかして観客それぞれに想起させると言うところに、この作品のミソはあったのではないだろうかと私は考えてしまうのである。


 閑話休題ではあるが、実はドラクエシリーズに小説版が存在する事をご存知だろうか。
 今は亡きエニックス文庫から始まった小説版ドラゴンクエストはⅠからⅦまで存在しており、ロト三部作、天空三部作、そしてⅦでそれぞれ作者が交代している。
 私はこの小説版の存在を知った時、胸が躍ったのを覚えている。子供の頃から思いを馳せていたドラクエの世界を、文字によって濃密に味わうことが出来るのかと思うと一刻と早く手に入れたいと焦ってしまい、とうとう全巻買い揃えて何度も読み漁ったものだった。なので、Ⅲで登場したライデインやⅥの最後に出てきたマダンテの詠唱は今でもそらで唱える事が出来たりする。


 だがここで大きく明記しておきたい事がある。実はロト三部作の著者は脚本家が本業で文体がやや台本チックだとか(逆に余計な描写がなく真っ当なファンタジー作品としては凄まじく洗練された名作に仕上がっている)、天空三部作の著者はⅣから巻を重ねるごとに段々と小説家としての実力が鍛え上がっており、その成長を味わう事が出来るだとか、Ⅶは初めから最後まで非常にバランスの良い、恐らく歴代で最も完成度の高い物語になっているだとか、ここでも語ろうと思うと色々と語る事が出来てしまうのだが、そんな中でも私が全巻を通じて思った事があるのだ。


 即ち、物語の主人公は、自分ではないと言うこと。


 小説版なのだから、当然自分ではない、作られた主人公の名前が存在する。Ⅳの勇者の名前は「けんた」でも「たろう」でもなければ「ああああ」でもない。「ユーリル」という一風変わった名前の主人公が登場する。
 そして自分でない主人公が、かつて自分と旅をした筈の仲間達と共に旅をする。ユーリル達一行はあの、ドラクエ4における強敵であるキングレオに向かって、何と仲間全員(つまり八人)で突っ込んで袋叩きにする。かつて四人でパーティーを組んで挑み、何度も全滅して苦労した筈の敵が、たった一度の挑戦で比較的あっさりと破られてしまう。
 それがドラクエを小説にするということ。「ドラクエを他の媒体にする」という事なのだろうと、私は思っている。


 そして、それは今回にも言える事だ。
 「ドラクエを映画にする」。この時点で、既にその作品は我々がそれぞれ心の中に持つドラクエの物語とは違う、違和感満載の全く別の物語が展開される……それは至極当たり前の話なのである。
 だからこそ、私はドラクエが映画化されるというニュースを耳にした時、「尺が削れてコレジャナイ感は出るな」という事を既に覚悟していたのである。恐らくこの「少年時代カット」に関する多くの意見と私の意見に差が出た理由はここにあると思っている。


 だが面白いことに、これがファイナルファンタジーや、テイルズ等の作品の映画化であったとするならば……恐らく先ほど述べた様な「コレジャナイ感への覚悟」や、それに対する否定意見は今回ほどは出なかったのではないかと、私は思う。

 それこそが、いわゆるFFとドラクエの対比というか、いわゆる名作JRPGドラクエの本質的な違いを意味しており……それこそがもう一つの否定意見である「ラストの展開」にも大きく関わってきているのではないか、と思うのである。

 

 

 長くなってしまったが、続いて「ラストの展開」についてである。
 これに関しては、私はがっかりするどころかむしろ心を打たれてしまったバカモノなので、映画制作陣からすれば私は格好の獲物だったと言うことになるが、そんな馬鹿の頭でも、この展開は流石に全員が全員受け入れられるはずが無いだろうなとは思っていた。
 特にラスボスであるミルドラース……に寄生したコンピューターウイルス(正確には彼を作った見知らぬ誰か)による「大人になれ」はかなりファン達の心を抉ったらしく、それによる「思い出を汚された」「ファンを馬鹿にしている」等の叫びは未だにネットを探せばすぐに見つかるだろう。


 だが。これはおかしいと思う。
 なぜなら……なんて議論するまでもない。主人公はそれを真っ向から否定したではないか。
 ゲームの中のキャラクターを愛し、ゲームの世界を愛し、その物語の中で何かを学んで生きていく。その行為自体と、大人としての責任から目を逸らしてグズついている事は、全くの別の問題であると、主人公が意志の力で削除プログラムに抗って証明してくれたではないか。
 「大人になれ」と言われて凹んでしまう人間がいる時、なぜそうなってしまうかと言えば、まさしく彼等自身が所詮ゲームは、ドラクエの世界は虚構で、偽物で、何も手に入るものがなく、ただの時間の無駄遣いでしかないと自分自身で認めてしまっているからではないのか。「ゲームを肯定すると言う構成自体が前時代的、今はゲームも文化として認められている」と言った批評も当時はあったと思うが、もし本当にゲームが立派な文化ならば「ゲームをすること」=「大人になりきれていない子供がすること」という理屈にはならない筈だ。


 そして他ならない私は、ドラクエをプレイする事は決して時間の無駄ではなかったと思うし、少なくとも受験時代を無駄にしても得るものはあったと思うし(ここはあまりに暴論だがw)、「大人になれ」と言われたところで多少グラつきはしながらも、ハッキリと反論する……度胸はなくとも反論できるだけの思い出を持ち合わせている自信はある。
 なぜそう思うか。それは別に私の個人的な体験談によるものではない。
 何故かといえば、私は一般的なJRPG(無論例外はあるが)と違って、ドラクエは「体験」するゲームだと思うからだ。


 例えばファイナルファンタジー。初代やⅢなどの一部を除いて、FFでは主人公の名前が定められている。テイルズシリーズも名前を変えられる要素はあるが、ボイスでの呼び名は基本的に普遍であり、明らかにデフォルト名がキャラの記号として機能している。
 小説版ドラクエの様に、主人公は明確に「自分ではない」のだ。だからこそヒロインと主人公が結びつく時、彼女は自分の恋人ではなくあくまで主人公の恋人であり、プレイヤーは彼等を見守るいわゆる神の視点としてキャラクターを操作する事になる。


 だがドラクエはその点において完全に異なっている。なぜなら、もともとドラクエは海外にて流行っていた「ウィザードリィ」や「ダンジョンズ&ドラゴンズ」と言ったRPGを国内に持ち込む為の、言わばユーザーをRPGの世界に「連れ込む」為の作品だったからだ。
 ファミコン時代にドラクエを特集していた「ファミコン神拳奥義大全書」という冊子の「ドラゴンクエストの正しい楽しみかた」という項目には、この様な記述がある。


 「ドラゴンクエストはアクションゲームじゃない! だからアセってボタンを押すことはないんだぜっ。じっとそのまま待っていてくれてる。なんたって主人公はキミなんだから! 途中でトイレにいこーがアイスクリームをなめよーが、あるいは不眠不休でのめりこもーが、それは主人公であるキミの勝手なのだっ!」


 この書籍はドラクエ初心者向けに、ゲームを一から説明する目的のものとなっているが、そこでは「キミが戦う」「キミが武器を買う」と言った様に、全て主人公=プレイヤーである事が大前提として組まれているのである。
 このように、現実世界で生きている我々人間を、ドラゴンクエストというファンタジー世界にいわば「異世界転移」させて、我々自身の経験としてその世界で暮らしてもらう事が、そもそものドラクエのゲームコンセプトなのである。


 ……こんな面倒な話は抜きにしても。
 確かに主人公の名前を自分とは別の名前にしてしまえば、FFの様に架空の人間を神視点で辿るようなプレイの仕方は可能である。だが、それも含めてドラクエはプレイヤーに向かって「キミはこの世界をどう楽しむ!?」と自由度の高い問いを投げかけているのだ。
 だからこそ、ゲーム内の行動には常に思い出ができる。モンスターに遭わない様に願いながら必死で街に帰ったり、なんとか貯めたお金で武器を買ったり、FFやテイルズでは濃厚なストーリーによって補うその旅路は、しかしドラクエでは自然に我々の体験という形で補完されていく。
 ドラクエはまさしく、現実と空想をリンクさせるゲームであると私は思うのだ。オンラインゲームの様に現実世界の人間関係をそのまま仮想世界に持ち込む形式とは違う、「オフラインゲームは現実世界にとって無駄に過ぎないか」という命題に対する究極の答えを、ドラクエは国内最古参のRPGでありながら既に出していたのではないかと思う。


 そして、そのエッセンスは紛れもなく、この「ユアストーリー」にも込められていると思う。
 確かにVRオチだった。それまでもビアンカも、サンチョも、パパスの無念も、アルスという子供も、手に入れた幸せは全てVR世界のものだ。
 だからって、本物じゃないのか。主人公が「リュカ」としてあの世界に本物を見出した様に、我々もドラクエを無垢な心でやっていた頃はみんな本物だと思って、自分だけの、自分の力で歩んで切り開いたドラクエという世界を楽しんでいたんじゃないのか。
 「大人になれ」という言葉に、どの様な気持ちを持って立ち向かうか。そこが、あの映画が我々に投げかけた一番の試練だったんじゃないかと私は思う。

 

 

 

 そして、我々はその試練に、屈したのだとも。

 

 


 ここまでのご静聴を、心より感謝申し上げる。過ぎた言葉も多かったと思う。加えてお詫び申し上げたい。
 初めに書いた様に、ここまで述べて来た内容は全て、ちょっと凝り性なにわかドラクエファンによる一考察に過ぎない。
 だが、最後に一つだけ、言いたい。


 なぜ、あの映画の後、ドラクエはナンバリングタイトルでも、外伝作品でもなく、「ダイの大冒険」のプロジェクトを立ち上げたのか?


 ドラクエは主人公=自分自身というゲームだと先ほど私は述べた。
 だが、ジャンプ黎明期を支えた往年の名作「ダイの大冒険」の主人公は自分ではない。ダイだ。


 私はあの瞬間に、ドラクエが敗北してしまった様に感じてならない。
 35年間ドラクエが我々に伝えようとして来た事が、あの瞬間に既に時代に求められていなかったという事実として、白昼の下に晒されてしまったように思えてならない。
 プレイヤー一人ひとりの思い出となる様にドラクエを作っていた筈の製作陣が、あの瞬間に所詮は虚構を作っていただけだと突きつけられてしまったのではないかと思えてならない。


 「ダイの大冒険」はいい。あれは名作だ。そのコンテンツをリブートさせるのは素晴らしい企画だ。私は僅差でロト紋派だけども。ちなみに天空物語やソウラもオススメである。あと漫画版ドラクエ6とか。
 だが、その影でユアストーリーであり続けたドラクエは死んでしまったのか、はたまた息を吹き返して、新世代のスタッフによる新たなドラクエが誕生するのか。
 その時の主人公は誰か。


 今は続報を待つのみである。